2014年8月3日日曜日

インターネットを中心に考えたメディアの歴史と共存・付き合い方

※こちらに書いた記事のコピーです→http://hikichin.com/html/freeexp/handle_net.html


人が文明社会を築いていく中で、新聞・ラジオ・テレビと様々なメディアが生まれているが、これらのメディアが新しく生まれても、過去のメディアを淘汰している訳でもなく、しばらくして共存関係となった歴史がある。だから、インターネットという比較的新しいメディアも、過去のメディアと共存すると思っている。


メディアの歴史 - ラジオ本放送からわずか100年も経たないうちに普及したインターネット -

新聞は、はるか昔まで遡れば紀元あたりのローマ帝国時代に至る。急速に普及するのは、おそらく17世紀(1600年代)だろう。活版印刷と郵便制度の整備により、定期的に出版された。これが今日の新聞につながる。

ラジオ・テレビ・インターネットは20世紀(1900年代)の技術だ。ラジオが生まれたのは1900年くらい、テレビが生まれたのも実はだいたい同じくらい。むしろ、テレビの実験は1800年代半ばに始めている。
ラジオの本放送開始は1920年くらいから、テレビの本放送開始は1940年(白黒テレビ)・1950年(カラーテレビ)くらいから。
ラジオ・テレビで共通するのは、電波を利用して音声や画像を受信するということ。電波の利用という意味では、携帯電話・スマートフォンも同じ。その後テレビ・ラジオは、有線放送も開始しているが。

インターネットは、その前身のARPANETの1960年代が始まりだろう。その後1970年代半ばからinternetworkingの省略形としてインターネットという言葉が使われるようになり、1980年代後半からインターネットという言葉が盛んに使われるようになった。
1983年に、ARPANETのプロトコルが、現在よく使われるTCP/IPに変わる。1985年にARPNETからNSFNetへ移行。1990年に最初のwwwのサーバ・ブラウザが完成する。
1995年にNSFNetは民間へ移管。Windows95とともに普及した。そして、インターネット普及に貢献したのがADSL高速通信サービスだろう。2000年に東京めたりっく通信から始まり、2001年のYahoo!BB・フレッツADSLのサービス開始で急速に普及した。(ADSL・携帯の年は日本の時系列。その他は世界の時系列)

携帯電話は、1990年代に普及していった。1990年代後半からショートメールサービス開始。2000年代に入ると3Gが普及していく。また、2000年代あたりから携帯からのインターネットアクセスが普及していく(日本での普及は1999年のiモード開始と思われる)。
2007年のiPhoneから始まり、続いて2008年位に販売されたAndroidとともにスマートフォンは普及していく。スマートフォンの普及と共にインターネット通信量が急増。すなわち、携帯からのネットアクセスが当たり前のものとなった。

私がこの記事を書いている2014年は、ラジオの本放送開始である1920年から、まだ100年も経っていない。その間に、私たちはネットへ気軽にアクセスできる環境が整っている。この100年のうちに、私たちは様々なメディアの発展に遭遇しているのだ。

個人的に調べた限りのメディアの歴史の概要はこんなところ。



新聞・ラジオ・テレビとインターネットに関わる雑感

新聞といった活字メディアは、文字の発明以来の歴史があるだろう。だが、ラジオ・テレビ・インターネットといったメディアは、1900年代から今日にかけて、急速に発展した技術だ。
新聞・ラジオ・テレビの歴史を見ると、他のメディアを完全に淘汰した事実はない。だから、インターネットが普及しても、過去のメディアが完全になくなるとは思っていない。
ただ、提供のされ方が変わることはあり得るだろう。
ラジオ・テレビといった、電波や有線で音声・画像を送る物はインターネットで代替は可能である。インターネットは、携帯電話の電波・光ケーブル等で各家庭に配信することが可能だ。だから、離島でない限りは、配信方法に変化はあるかもしれない。
離島なら、衛星通信という手段もあるだろう。
配信方法として、非常時のラジオ放送を除けば、インターネットにすべて委ねる可能性は否定できない。

インターネット以外のメディアに問題があるとすれば、新聞・ラジオ・テレビの地方局などの利権・存在意義となる。
(テレビニュースも含むが)新聞もその存在意義が問われる時代になっているように思う。完全になくなるとはいえないものの、インターネットという情報の氾濫する中で、記事の正確性に疑問を持たれ、信頼性が失われてしまうと、読者は記事・報道そのものを非難しだす。記事に対する正確性・深く掘り下げた内容など、記者の手腕が問われる時代に入り出しているように思う。

逆に、インターネットそのものに対する問題もある。
インターネットというインフラに対する問題がある。インターネット単一のインフラに乗ってしまうと、インターネット自体が崩壊した場合、あらゆる情報がやりとりできなくなる危険が出てしまう。
インターネットというのは、あらゆる接続者に対して、平等にアクセスできてしまう。それはたとえ犯罪人・犯罪的組織であっても。便利であるが、同時に危険を孕む世界でもある。だから、ネット教育の欠かせない世界だ。(後述)
ネットテロの発生を考慮すると、インターネットそのもののあり方を十分吟味する必要がある。それは、電気・水道・道路信号といったインフラと接続するならなおさらである。暗号化・IPフィルタリング・物理接続線分離等を考える必要がある。
また、インターネット自体もお金がかかるインフラである。だから、そのインターネットへお金が回らなくなると、維持が出来ずに情報が遮断される危険があるだろう。インフラとしてインターネットに頼りすぎる危険性・インターネットを支える仕組み作りは意識する必要があるだろう。
たとえば、世界のメールの6~7割がスパムメールという事実もある。インターネットを支えるサーバーへのアタックも懸念されている。



アプリ単体を批判しても、インターネットの問題は解決されない

インターネットの歴史は、インターネットを利用するアプリ(プログラム)の歴史といっても過言ではないと私は思っている。(もちろん、インフラの重要性も欠かせない。特にARPANETの存在やADSLや3G以降やスマートフォンの普及など)
まず、WWWサーバとクライアントのアプリがなければ、情報の発信・情報の閲覧が始まらなかっただろう。その後、メールのやりとりができるようになり、VPNなど様々なアプリが開発・サービスが提供され、使えるようになった。
サーバー側のアプリとして、ブログサービス、Wikiサービス・クラウドなどが提供されるようになり、便利になっていった。インターネットラジオもサーバー・クライアントアプリの一つだろう。インターネットテレビもその延長線上になるだろう。

インターネットの世界は、犯罪的な存在を含めて、あらゆる人に対して平等に通信サービスが提供される。
その上で私たちは、ある程度フィルタリングされた世界の中で生きている。例えば、ISP側で迷惑な接続を遮断したり、メールサーバーでスパム・ウイルスメールを振り分け・削除したり、検索できなくしたり、ウイルス対策ソフト等で攻撃を遮断したり…。その中でなるべく安全にネット接続するようになっている。
そうしたフィルタリングされた世界の中であれば、ある程度犯罪的な存在との接触は限られてくる。それでも、ネット上でウイルス・スパムメールが存在したり、人と接触する以上、犯罪に巻き込まれる可能性はどうしても出てくる。
批判されている掲示板・LINEなどの存在は、あくまでサービス・アプリ・ツールの一つでしかない。そのものを淘汰しても、新しいサービス・アプリが提供される。だから、ツール自体を批判し規制しても、別のツールに移行するだけ。最も必要な対策は、安全なネットとの付き合い方を学習することだ。(後述)
また、アプリ・ツールのバグ・セキュリティホールを無くすことも欠かせない。暗号化技術の開発も止めてはならない。2014年8月現在安全とされるAESもいつか破られると思った方がいい。
ただ、私たちは過剰に暗号化が破られることばかり気にする必要はない。これは、国・OSやアプリの開発者に求められている課題だ。私たちは適時、必要とされる適切な暗号・プラットホーム等を利用すればそれでいい。WindowsXPのような警告に耳を傾けて対策できればそれでいい。
私たちユーザーが気にすることは、そうしたアプリ対応とともに、会社等で内部犯行者を出さないことだ。実際の人間が、会社や組織の中にスパイ等として入り込み、内部から攻撃等をされることに気を付けなければならない。これが一番大切だ。
あとは、自分が知らずに犯罪者にならないこともあるだろう。それは、後述の「学習」で習うべきことだろう。



<学習の必要性>生活の中における、インターネットを含むメディアとの付き合い方

インターネットは、新聞・ラジオ・テレビと異なり、自分自身が発信者となるためのハードルが極めて低い。犯罪的組織であっても、素人であっても、(メールやLINEなどを含めて)ネットへ自分から言葉を書き込みやすいし、情報をアクセスしやすいし、サービスを利用しやすい。
無知であれば犯罪に巻き込まれやすい環境でもあるし、自分が攻撃されやすい環境でもある。ならば、どうすればいいのか。
必要なのは「生活学習(私の造語)」の中における「ネット教育」だ。「交通安全教育」と同列に扱っていいものだと考えている。
現在の学校教育において、「四・五教科」ばかり注目される傾向にあるが、私たちが社会人になった時を考えると、社会生活に関わる知識を学ばなければ、子どもが大人になった時に社会性のなさを非難されてしまう。だから、「生活学習」のような学習機会が必要だろう。
インターネット上では、大人も子どもも、性別・宗教・思想など、そういった立場を超えて、情報・人にアクセスできてしまう。だから、現実社会と比べてトラブルが起きる可能性は高くなる。
ネットで人と接するのであれば、礼儀をわきまえる必要があるだろう。不用意な画像をアップロードしないなどのマナーが必要だろう。そうした知識がなければ、社会人であっても、ネットで問題が発生してしまう。「ネット教育」による学習は、誰もが受けるべきだ。
子どものうちに、ネット教育を受けることができれば、ネット上の有益な情報を取得したり、人と会話することは決して悪いことではないと思う。フィルタリングソフトとウイルス対策ソフト等を併用して、安全に利用し、「依存」しなければいいと思う。
それに、人と接してスムーズに話ができることは、社会人になった現実社会においても必要な「技術(スキル)」の一つであり、無駄な経験・技術・知識ではない。

学校等で社会教育である「生活学習」の一環として、「ネット教育」を受けることは、大人になっても役立つ知識として必要だと私は考える。



インターネットを排除する必要はない

インターネットは、新聞・テレビ・ラジオ世代からすれば、「自分から発信できる」という未知の部分、「双方向でやりとりができるが故の犯罪報道」という怖さから、どうしても忌避したくなるものかもしれない。
しかしインターネットは、(偽情報もあるが)様々な情報を収集できる・サービスを利用できる便利さがあるし、国境や立場を超えて会話ができる楽しさなどがある。それは、新聞・テレビ・ラジオではできないものだろう。
ただ、新聞・テレビ・ラジオと違って、自分から能動的に動くことが必要であるため、疲れる部分がある。その点では、テレビ・ラジオのスイッチを入れて視聴する気楽さ・アクセスのしやすさは、インターネットと比べれば優れている。だから、完全にはなくならない。

インターネットのネット配信・サービスは、既存の新聞・ラジオ・テレビとは異なる、新しいメディア・サービスであり、過去のメディアとは別のものだ。だから共存できるし、排除する必要はない。
もし、既存メディアが危機感を感じるのであれば、自分達がインターネットという新しいメディアにはない「独自性」は何か・いかに出すかを考えることが重要だと考える。



参照
新聞 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E
ラジオ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA
テレビ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93
携帯電話 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%90%BA%E5%B8%AF%E9%9B%BB%E8%A9%B1
インターネット - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88
インターネットの歴史 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
ADSL - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/ADSL
iモード - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/I%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%89
iPhone - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/IPhone
Android - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/Android



2014年7月20日日曜日

今日(2014-07-20)のメモ・下書き

わいせつについての下書き




わいせつ物頒布等の罪は、性器等を描いた性表現を、売ったり閲覧できる(頒布できる)状態のものを取り締まるものである。

わいせつ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%9B%E3%81%A4%E7%89%A9%E9%A0%92%E5%B8%83%E7%AD%89%E3%81%AE%E7%BD%AA

わいせつ三要件
1.通常人の羞恥心を害すること
2.性欲の興奮、刺激を来すこと
3.善良な性的道義観念に反すること
「わいせつ - Wikipediaより引用」


悪徳の栄え事件
「芸術的・思想的価値のある文書でもわいせつの文書として取り扱うことは免れない」
「わいせつ - Wikipediaより引用」

基本的には、芸術性等は関係なく取り締まられる。
現在、わいせつとされているものが流通・展示等が可能なのは、警察側がお目こぼししているためであり、明示的に許可はされていない。

社会風俗を守る目的の法律だが、その有効性には私個人が調べた限り、疑問を感じる。むしろ、わいせつ要件で取り締まることで、本来取り締まるべき性被害への対応がおろそかになるのであれば、わいせつでもって取り締まることは、むしろ個人の権利を守る上では害悪である。

なお、公然わいせつについても、プライベートな私空間であって、その空間にいる全員に合意があっても、複数人が性行為をすると、逮捕される可能性がある。合意があっても取り締まることについては、私個人の考えとしては違和感を感じる。


** ゾーニングについて
目安として定義する。
文化庁管轄の著作権法で定義する。



**性について学習する権利

子どものうちに性に関する情報を規制しても、大人になってからどうしても性に関する情報を得る。
大人になった時に性について無知・誤った情報を得て、誤った情報を実行したり、無知から相手に暴力行為をすることは想像できることであり、問題の先送りの効果しかなく、社会の性道徳・性倫理の悪影響は免れない。
従って、子どものうちに、性に関して学習する権利を有すべきである。

性教育とは、性行為に関する知識だけではない。
・異性との恋愛や結婚のこと
・LGBTのこと
・子どもの心と子育てのこと
・そして、性行為のこと
これらをセットで学ぶことが、人が生きる上で必要な性知識となる。

2014年4月23日水曜日

外国人労働者受け入れ(事実上移民政策)が、日本という国を終わらせるかもしれない

外国人労働者受け入れ(事実上「移民政策」)だけど、下手に行うと日本の治安が相当悪化すると思う。

外国人労働者を受け入れて喜びそうな所って、「行政」「大企業」「極右団体(排外団体)」だろうね。

「大企業」は、工場等の規模が大きいから、語学ができるリーダーがいれば、外国人労働者でも生産ラインをフル稼働できる。海外研修して現地の言語・文化を学べば、国内でもその経験は役立つ。そして、日本が駄目になれば逃げられる。最も勝利に近い側。
「行政」は、外国人が入れば、とりあえず短期・中期的には税収は増える。ただし、治安悪化等があるので、国の舵取りがかなり難しくなる。その場合、国としては統制国家を望むだろうね。あと、純粋な日本人が少数派になって、国が乗っ取られる可能性もある。

異質だと思われそうのは「極右団体(排外団体)」だろう。特に特定の外国人が日本に移り住むのを排外団体は嫌い、デモ等で叫ぶ。建前としては外国人受け入れは反対だが、上層部としては、本音として外国人か受け入れが始まるのをチャンスに思うだろう。
なぜかというと、外国人が入れば、文化的な違いや言葉の壁などのコミュニケーション不足で日本人との摩擦は避けられないからだ。それは、日本国内という身近な中で、外国人が多くなればなるほど摩擦は大きくなる。すると、排外団体でなくても、外国人に対して反発心を持つ。
外国人に対して反発心が大きくなればなるほど、排外団体を支持する人は多くなる。結果的には排外団体の力が強くなり、政治的な影響力が強くなる。だから、頭の回る排外団体の上層部としては、腹の底では外国人労働者が大量流入するのを待っているだろう。
排外団体の思惑通りに、外国人が大量流入し、排外団体と外国人との摩擦が起きれば、当然治安は悪化する。行政は、それを待って検閲や国民の人権を統制し始める。規制したい人は、大喜びになるだろうね。治安と景気が悪化すれば、大企業・富裕者層は外国へ逃げる。
そして、国民の権利は制限され、統制国家となり、大企業・富裕者層がいなくなって税収も減り、負けるのはひたすら国民ということになるだろうね。最終的には国の存亡に関わり、国も敗北するかもだけどね。


雇用環境を悪化させれば、日本国民が疲弊して動けなくなって、働ける人が少なくなるのだから、外国人労働者受け入れをせざるをえなくなる。雇用環境悪化と少子化が、日本を急激に駄目にしていくきっかけになると思う。

日本が終わってしまう姿が見えてしまうな。

2013年10月3日木曜日

漫画・アニメ・ゲーム等の規制は、小説などの他の創作物にも悪影響を与えるし、子どもも女性も国さえも守らない

性と創作物・子ども等に関するお話です。
長文・乱文ですが、お付き合いいただければ幸いです。


○日本の文化の危機
最近の傾向として、法律・条例で漫画・アニメ・ゲーム等に対する表現規制を強める動きがある。目的は「子どもを守るため」と言うが、はっきりいってこのような規制は「子どもを不健全にし、子どもが余計に守られなくなるもの」だ。どっちかといえば、「一部の『偏狭な大人』が見て不快な作品をこの世からなくすため」というのが本当の目的だろう。いわゆる、民主主義国家に不可欠な表現の自由に対する挑戦が、近年の表現規制の動きである。
個人的には(意識・無意識に関わらず)「子どもが自分の理解できない遊びをするのはけしからんから」「自分が不快だと思うものを子どもが見るのはけしからんから」という、「大人のわがまま」を通すのが目的だろう。あるいは、行政の利権のためというのもあるだろう。「子どものため」ではなく「大人の自分たちのため」に規制をしようとしているのだ。本当に「子どものため」を思うなら、自分で自分を守れるような施策をすべきで、こちらから提案もしているのに、まったく耳を向けていない。子どもへの性犯罪の半分以上(80%とも言われる)は、親族や身近な人から受けているという事実から目を背けて。

小説には、直木賞作品や村上春樹氏の作品などを読めばわかるが、普通に性行為に関する表現がある。音楽だって、エロい歌詞、暴力的・残虐的な歌詞がある。これらの分野が漫画・アニメへの規制とは無関係でいられるかと思ったら大間違いだ。戦時中の検閲は、「子どもの健全な育成」を目的として、漫画・絵本の規制が始まったが、それを皮切りに映画・音楽と規制は急拡大した。
そして規制を強く望みロビー活動をしているある団体は、漫画・アニメなどの画像だけでなく、音楽・文章も規制すべきだと、はっきり言っている。
今、日本の文化自体が危機的状況にあることをどれだけの人が理解しているだろうか。


○創作物の表現規制・検閲の歴史
戦時中の1938年10月に、内務省図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」によって、青少年向け漫画・絵本の規制が始まったことをご存じだろうか。
これは、青少年の健全な育成という名目で、漫画・絵本に対する検閲を行うというものである。
その後、1939年には「映画法」で国益に反する映画が作れなくなった。
1940年には「警視庁興行取締規則」で、演劇・講談などの興行に対する規制が強化された。
1941年からは、浪曲などの音楽・レコードの取り締まりが強化された。

それ以前から、新聞では検閲があり、政府の意向に反する記事は書けなかった。それが、1945年には「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」「日本ノ新聞準則ニ関スル覚書」によってさらに規制が強化された。

当時の検閲は、組織図を確認する限り二つあった。内務省警保局検閲課(図書課)、そして、警視庁特高部検閲課。つまり、検閲で問題があれば、特高に捕まる可能性があった。特高に捕まった人がどのような扱いをされたかは、歴史を調べればわかる。拷問など当たり前で取り調べで死亡することだってあった(蟹工船の小林多喜二は、特別高等警察の取り調べの際に行われた拷問で死亡している)。
そして、今の警察組織も自白に頼った誘導尋問は当たり前で、冤罪も多発している。国際社会からは、まるで中世のようだとバカにされているのが現状だ。つまり、日本の取り調べ・司法は、世界の中でも後進国に位置付けられている状態である。

漫画に対する表現の自由は、昔から対立の歴史だった。
戦争終結は1945年8月である。
詳細は「マンガはなぜ規制されるのか」長岡義幸著が詳しい。
その戦後である1955年あたりで、「日本子どもを守る会」「母の会連合会」などが漫画バッシングをはじめる。ちなみに、「母の会連合会」は、警察官の妻による民間団体。つまり、事実上警察による漫画の規制だったと言える。
そして、警察などの行政・親が考える「健全な作品」以外の漫画に対して、大規模な排除に動き出した。その中に、当然手塚治虫氏の作品も含まれた。
排除の理由は「作中に拳銃が出た」「文字がほとんどなく、効果音ばかりで読書教育に悪影響」「絵が低俗。芸術感覚が麻痺し情操が荒廃する」「漫画を取り上げ、良い本を与えよう」など。こんな理由を見れば、子どもの自主性などまったく無視して、大人が押しつけようとしている。まさに過干渉である(ちなみに、性犯罪者の傾向として、小さい頃に親などから過干渉を受けた人が数多くいることを加える)。
ルパン三世みたいに拳銃が出たり、風の谷のナウシカみたいに文字がほとんどなかった作品を読んだり、あげく北斗の拳みたいに暴力ひしめく作品やらんま1/2など女性の裸がたくさん出る作品を見るなど、様々な漫画・アニメに接してきたが、その世代に子どもだった人の多くはいたって健全に育っている。
だが、そんなことを無視して、「子どもの健全のため」という名目で、1950年以降に次々出来ていった「青少年健全育成条例」の中で、漫画・アニメ等の「事後検閲」が行われていった。それによる出版社側の自主規制で、知らないうちにいくつもの作品が消えていっている。それは、今もだろう。


○創作物を規制することは正しいことか
大人達にとって「良い本」と「悪い本」があって、「悪い本はこの世からなくさないといけない」と思っているかもしれない。だが、それは正しいことなのか?
「悪い本」とは「大人の自分にとって都合の悪い本」ではないか?
作品の中には「暴力」「残虐」「エロいものなどの性表現」があるだろうが、それを単純に「大人が」見たくないからではないだろうか。
第二次性徴期以前(だいたい10歳以前)なら、エロ・グロ作品は見せたくないと私自身も思う。でも、そういった子どもは多くは見てもわからないし、わかったとしても他人に傷つけない程度に真似する程度で、しかも大きな影響を与えることはない。それより何より、子ども自身が虫を殺したり、子ども同士で喧嘩(暴力行為を)したり、子どもが裸になったり下半身を出してたりなど、現実世界の方でエログロ暴力行為をしている。
第二次性徴期以降になると、今度は青少年側が好んで刺激の強い作品を求めてくる。それは、自我の目覚めでもあり、子どもが自立していく過程でもある。その子らが「暴力」「残虐」「性表現」を見ることは、個人的には予防措置をとれば問題ないと考えている。その予防措置とは、「メディア教育」と「性教育」だ。そして、これらの教育に対して否定的なのも大人側だ。
つまり、「有害図書」に相当する漫画・アニメ・ゲームが出ることで問題が起きているのは「子ども」ではなく「大人側」だ。よく考えて欲しい、漫画・アニメ・ゲームの影響で他人を殺したとか、性犯罪をしたのが明確になっている事件なんて、今までニュースで出ただろうか。どちらかといえば次のような声が主だろう。
 ・「あんな卑猥なものを置くなんてけしからん。子どもに悪影響だ」
 ・「こんな暴力表現・残虐表現があったら子どもが真似したら怖い」
これらは「過敏に反応する大人の声」ばかりだ。
先ほどの声は、次のように言い換えられる。
 ・「あんな卑猥な物を(自分は)見たくない」
 ・「こんな暴力・残虐表現を見てると(自分の)気分が悪くなる」
つまり、「子ども」を利用して「大人である自分」にとって都合の悪い物を排除したいだけである。

芸術性云々も、私から言わせてもらえば、「個々人が持つ『感動』を主観的に評価するもの」だ。「個人の主観」だから、人によって芸術性なんて変わる訳で、それで規制の理由にすること自体間違っている。
政治的主張もそうだ。創作物にしても、どのような文章においても、いつ何時に作中に政治的な意味合いを含む内容が出るかなんて、実際はわからないものだ。その意味においては、あらゆる作品の表現の自由を守らなければ、「表現の自由で守るのは政治的主張だ」と言われても、説得力を欠けてしまう。

それに、ベルギーでの調査でも、日本の警察とハワイ大学の共同調査にしても、エロい作品からの悪影響は(子どもを含めて)ないとの調査結果が出ている。暴力表現についても、アメリカのハーバード大学などの調査で、短期的には真似をすることはあっても、長期的な悪影響はないとの結論が出ている。
あなたは、エロい作品を見たり、暴力・残虐的な作品を見て、自分が不健全に育ったと思いますか?自分の実際の育った環境が悪かったのを創作物の影響だと責任転嫁していませんか?


○創作物における性愛・エロスの必要性
私自身、小説については高校生の頃から本格的に書き始めている。
そこで、私自身は「男女の性について書く」ということが、作品を描く上不可欠であることがわかった。
人は生きていき、男女が出会って本当に心から通じ合って付き合う中で、性というものはどうしても意識せざるを得ないのだ。だから、個人的に性行為をしていなかったということで「本当の性愛が描けない」という悩みもあり、悔しかったがその部分は飛ばして描かざるを得なかった。そして、当時の私自身も性に対して後ろめたさを感じていて、公表時には避けたいと思っていた。
でも、本当に人が恋愛するのに、性を避けることなんてできるのか?
好きな人と出会い、手をつなぎ、キスをして、好きな相手と抱き合う。そして、裸になって抱き合う。
好きな人がいたら、どこまでも近付き、抱き合いたいと思わないのか?
思わない人は、本当に好きな人に本心で抱きしめたことがあるのか?
自分はある。目の前に、母が、父が、弟が自殺して、次に自殺してもおかしくない女性がいて、守りたくて抱きしめたことがある。その時に痛感した。好きな相手に肌で触れて、抱きしめることで、本当の意味で相手への愛おしさを全身で感じることができるんだ。
そんなことを経験していれば、性愛というのは忌避するものではなく、もっと身近で大切にすべきものだとわかる筈だ。
話がそれるが、子どもがどれだけ思慮深い面があるか知っているだろうか。私は高校生の頃にある施設でパソコンで遊んでいたのだが、その自分の横に小学生の女の子がちょこんと座って私がプレイするゲームを見ていることがあった。その女の子は、私にいろいろなことを話していたが、もうはっきり覚えていないが、その子の話をずっと聞いていると、すごいしっかりとした意思・意見を持っていることを痛感させられて、私は凄いショックを受けた。今(2013年)でいえば、春名風花ちゃん(はるかぜちゃん)がしっかりとした意見をツイッターで発言して、ませているとみんなが叩いているが、はっきり言って子どもをまったく理解していない。子どもは「一人の個性・思想・魂を持つ、大人と同じ一人の人間」だ。子どもを下に見ている大人は、不勉強な愚か者だ。
話を元に戻す。
自分の少ない恋愛経験の中で、性愛を通じて、相手をよりいとおしく感じられるようになるのを実感している。言葉だけという上辺の恋愛では、人は本当に相手を愛することは難しい。
別にセックスだけが性愛ではない。抱きしめてもいい。キスをしてもいい。そういった愛情表現で互いを確かめ合えれば、それだけで互いの絆はより強固になる。それは、小さな幼児も、年配のご老人もそうだ。恋している好きな人と抱きしめあえたら、嬉しくないだろうか。
そして、性欲を持つ第二次性徴期以降の青少年から性欲が衰えるまで、性行為を通じて相手と肌を重ねたい人は多いのではないだろうか。
その真実を小説に描くことの何が悪いのか。なぜ、その感覚を描くことを禁忌にしたいのか。
そして、なぜ漫画・アニメ・ゲームで性愛・エロスを描くことが悪いことなのか。
自分には、大人が自分が恥ずかしいことだから、子どもに性愛について教えること(性教育)をサボっているだけにしか見えない。実際は教えることを恐れているだろうが。


○性教育の充実の必要性
青少年はみんな性愛を知りたがり、自分の体の変化に悩んでいることを理解しないといけない。
大人は初潮・精通についてきちんと教えられるか?
子どもがそんな場面にあったら、どれだけショックを受け、うろたえるか知っているか?
私は親に話ができなかった。性教育で詳しい話を聞かないで精通が来たから、知識もなかったために、精神的ダメージは大きかった。
今の性教育は、子どものためになっていない。
「寝た子を起こすべきでない」という人がいるが、私から言わせれば、第二次性徴期に入れば「いずれみんな寝た子は起きる」のです。
援助交際(売春)の話は、週刊誌やテレビニュースなどを見たり、友達と話をしていればその知識は入ってくる。ならば、その知識が入る前に危険性も含めて学習すべきなのに、それを学ぶ機会があるという話は私の耳に入ってこない。援助交際(売春)の危険性をあまり知らない援助交際で大きなお金が手に入ることを知れば、お小遣いがほしい、家計が苦しいという理由で、援助交際に走る少女が出て当たり前だ。そのような少女をたくさん生み出しておいて、「援助交際による少女の性被害が増えている」と言うのはおかしな話である。根本的には性教育で援助交際の危険性とお金が欲しい時の対応について学習できていれば、少女の売春はかなり抑えられるはずだ。
「エロいことを知らなければ、エロいことはしない」というのは、青少年にはまったく通用しない考えだということを理解すべきだ。性教育をまったくしないで生徒の10人に1人が妊娠したり性病が他の地域より圧倒的に広まった、テキサス州ラボックの例を知るべきだ。
性について真正面に考え、性教育を、身体の成長に関する知識や性感染症の知識だけでなく、恋愛に対する基本姿勢、妊娠した時に考えないといけない対人面・経済面・法律面の問題、性犯罪・性暴力・性虐待とは何で通報先はどこか、性行為の仕方などをきちんと学ぶ必要がある。


○性が身近な社会の方が男女平等であり、性が抑圧的な社会では父権社会である
特に最後の性行為の仕方を学ぶなんてけしからんと思う人がいるだろう。だが、性行為の仕方をしらなければ、大人になってから赤ちゃんを作る際に、女性にひどい苦痛を与えることになる。それは、性を通じた暴力だ。それより、むしろ男女間が肌を重ねて幸せを感じながら性行為をした方が健全だ。「性行為で快楽を求めるのは卑猥でけしからん」という人は、女性が赤ちゃんを作る際に性行為で苦痛に何度も耐えることを強いることが本当に正しいのかを考え直して欲しい。性行為で、苦痛を感じることと、快楽を感じることと、どちらが正しいのかをよく考えてもらいたい。
また、女性に苦痛を強いて赤ちゃんを産むというのは、女性の地位を落とす行為だと考えている。性について抑圧的な社会(例えばイスラム社会など)では、女性の地位が低い父権社会が圧倒的に多いという事実がある。逆に、昔の夜這いのあった日本の社会においては、女性がある一定の地位にあり、比較的女性の権利が守られ大切にされてきた歴史がある。江戸時代の三行半の風習などは、特に女性が離婚を申し込む上で女性が比較的有利に働いていた。つまり、男性が女性を抑圧するような社会ではなかった。
では、アダルトビデオが普及した今、女性の地位が落ちたかといえば、むしろ地位は向上しているように見える。AV女優が堂々と一般のテレビ番組に出演できるようになっているのは、よくよく考えれば女性の地位が向上しているように思える。逆に女性アイドルの方が男性が女性にアイドル像を押しつけてる感じで、父権的ではないだろうか。
それに、女性には生理があり、生理期間中の不快な症状で、ストレスをぶちまけられることがあることを男性が理解できれば、多少は女性にやさしくなれると思う。そして、第二次性徴期を過ぎた男性は性欲がすごく強くなることを女性側も理解してもらえると、助かる。


○児童ポルノ禁止法の目的とは
では、児童ポルノ禁止法の趣旨・目的を説明する。
法律の略称は、正しくは児童買春・児童ポルノ禁止法である。
この法律ができたのは、発展途上国の児童売春街で、児童による売春を通じ、性的虐待による死亡が発生したのが発端である。
つまり、児童への性的虐待という実際の人権侵害が発生したため、子どもの生きる権利を守るために運動を起こし、児童の権利を保護する目的で、この法律が世界的に作られることになった。
つまり、「児童の人権保護のための法律」である。
なので本法律の趣旨は、児童に対する性的虐待、児童の人身売買や誘拐など、児童に対する著しい人権侵害から保護するのが目的である。
児童ポルノがなぜ良くないのかは、次の理由である。

 ・児童ポルノである実写の画像(静止画・動画)が犯罪を行うことで作られた成果物であり、犯罪証拠物である
 ・児童ポルノが流通することがビジネスとなれば、さらに実写の児童ポルノ作品への需要が高まり、児童への性的虐待を助長する

つまり、「実写画像を通じて実際に児童への性犯罪を行っている」「ビジネスとなると児童への性犯罪を幇助することになる」のである。
なので、児童への性的虐待を撮影した児童ポルノは、取り締まることが妥当なのである。
ただし、国際刑事警察機構(ICPO)が「児童ポルノ」という単語自体が誤解を招くということで、児童性虐待成果物(CAM:Child Abuse sexual Material)を用いるべきと、各国に働きかけている。
理由は、仮想と現実の犯罪とを混同することを問題視しているからである。

だが、日本の児童ポルノ禁止法は、「見る側が感じること(思想)」から規制を行っている。だから、犯罪行為でない自分の子どもの裸の写真さえも児童ポルノとなる可能性がある。単純所持処罰の規定が盛り込まれれば、自分の子どもや自分の子ども時代の写真・動画を持っていたら、逮捕されてもおかしくない。
しかも、対象に漫画・アニメ・ゲームを加えれば、自分が落書きで裸の写真を描くことさえ犯罪行為になってしまう。
「仮想・現実にかかわらず児童の裸を『見る』のはけしからんから処罰すべき」というのは、見る側「思想」を取り締まるという考えだ。「エロい児童の絵を描くなどけしからん」というのも、本質的に描く人の「思想」を取り締まる行為である。つまり「道徳法」の視点で「治安維持法」と何ら変わりがない。しかもこれらは、本質的に児童の性被害者保護の考え方ではない。つまり「実児童の人権保護の法律」となっていない。
だから、法解釈として「実児童への性的虐待を行っている画像」を取り締まるようにしないと、世界的な児童ポルノ規制と乖離した古い考えでは、児童への性犯罪とは無関係な人ばかりを逮捕するような児童ポルノ法となってしまうだろう。


○創作物の児童の出るエロ作品を規制しても児童性犯罪は減らないか助長する
欧州の各地では、漫画などの創作物が児童ポルノにあたるかについて、裁判所が相次いで「漫画は児童ポルノにあたらない」という判決を出している。
また、韓国においても「漫画は児童ポルノにあたらない」という判決がでている。
成人向けのエロ漫画においては、未成年に見える男女が性行為をするものは当たり前に何年も出ている。しかも、その数はどんどん増えており、ネットにも至る所にある。だが、そのことによって性犯罪が増えたかといえば、逆に近年は児童への性犯罪は成人向けコミックが出る前の小学生458人・幼児96人(1965年)から、小学生45人・幼児3人(2012年)と10倍以上も減っている。
成人向け漫画が出始めたのは1970年代からであり。本格的に普及しだしたのは1980年代からである。
つまり、エロ漫画などの創作物と児童性犯罪とは、少なくとも無関係である。
逆に、統計情報を調べると、エロ作品の普及と性犯罪は逆相関関係で、エロ作品が普及すると性犯罪が減り、エロ作品が取り締まられると性犯罪が増えるような傾向がある。
事実、韓国において2000年に青少年保護法によってエロ作品に対する締め付けを強化した後、少なくとも4件の大きな性犯罪事件が起きており、日本にもそのニュースが伝わってくる位である。
昨年、さらに青少年保護法を強化した結果、実際の性犯罪をしていない、エロ作品を見た多くの青少年が数千人規模で逮捕される事件が発生して社会問題化した。逮捕された青少年は、就職ができずに苦しんでいる。
スウェーデンでは、漫画の児童ポルノに関する裁判で、警察側からの異例のコメントとして、創作物も児童ポルノとして規制することは、実際の児童性犯罪取り締まりの時間を削る行為であると紹介していた。
つまり、創作物のエロ作品の取り締まりに力を入れることで、実際の児童性犯罪取り締まりに悪影響を及ぼすことになりかねないのである。なぜなら、創作物のエロ作品を探すのはデスク上でネットを自動プログラムなどを使えば容易に探し出せるし、流通でチェックをかければエロ作品を調べることも可能だからだ。そして、創作物のキャラクタが児童かは捜査官の主観で決めることができる。だから逮捕は容易である。
しかも、創作物を見ることで性犯罪を助長するということについては、科学的に証明されていない。つまり、無意味なことを理由に逮捕しているのである。
そうして無意味な創作物への捜索に人・時間をかけてしまい、逆に実児童への性被害へのリソースが減れば、性犯罪者が野放しになるケースが多くなり、児童性犯罪を助長することになってしまう。これは、実際の性犯罪者を喜ばせるようなことだ。


○少子化問題
近年、少子化で政府の税収が減って大変だという。でも少子化は止まる気配がない。
日本の少子化の一因は、性情報を過度に「有害情報」として扱い、性教育でも恋愛・性行為を教えず、規制しているからではないか。
性教育等で異性のことや恋愛の仕方の基本についてきちんと知る・教えなければ、少子化が進んでしまって当たり前だ。授業でわざわざ恋愛について教えるなんて、馬鹿馬鹿しいと思うだろうが、お見合いも少なくなった現代において、恋愛ができなければ結婚もできない。つまり、子どももできない。つまり、国を維持する上で必要なカップルを作るために恋愛は学ばなければならない必要な知識である。
「異性と付き合うことをしないから、一人で暮らして異性に煩わされず自由でお金に困らないから嬉しい」という言葉を何度聞いただろうか。
異性のことやつきあい方を知らずに何度も別れてしまい、あるいは異性のことがわからず不安で付き合うこともせず、結局時間ばかり過ぎて恋愛・結婚をあきらめてしまっている人が多いのが現状なのだから、いくら保育所をたくさん作ったりしても少子化に歯止めはかからないだろう。性に過度に抑圧的な国を作ることは、結局少子化で国を滅ぼすことになるだろう。それとも、移民を受け入れることがお望みだろうか。


○最後に
エロい作品に嫌気を差す人はいるだろう。
でも、エロい創作物に対する需要は確実に存在し、その恩恵を享受している人はたくさんいるのは事実だ。恥ずかしいから誰も言い出せないだけだ。
小学生に成年コミックやAVはけしからんと思う人は多いだろう。私も親になれば小学生には早いと思うだろう。
だが、中高生の特に男子がエロ漫画やAVを見るのは本当に不健全なのか。性欲が有り余る第二次性徴期以降に、性的なものに触れないことが本当に健全なのだろうか。
性・暴力・残虐表現のある作品は、大人が見てショックを受けることはあるだろう。でも、子ども自身はそれを欲する時が来る。しかも、生理的にである。

性に関心を持たない人間は、健全なのか?

性に関心を持たないということは、赤ちゃんを産む行為、性行為に関心を持たないということだ。それは人として壊れていないだろうか。
性に関心を持たないということが健全というなら、人は滅ぶべきだということだ。なぜなら、赤ちゃんを産まないことを推奨する行為だからだ。

性を忌避せず、もっと真正面から向き合って考えてみるべきではないだろうか。
エロいものについても、一定のマナーが保たれていたら容認するくらいの寛容さを持っていた方が、幸せではないだろうか。
性について正しい知識を持ち、性情報とも適切に付き合い、男女が性のことも含めて互いに幸せになれるような社会を作った方が、日本の将来のためにもなるのではないだろうか。

2013年7月19日金曜日

聖地巡礼などの観光産業とアニメ

史実(歴史)・小説・ドラマ・映画・漫画・アニメ… 様々な作品・コンテンツというのは、その作品のメディア展開のみならず、観光事業に副次的効果を発生させる。例えば平安文化の中心となった京都市。漫画・アニメであれば、有名なところは「らき☆すた」の鷲宮神社。
京都・奈良などの歴史的建造物や文化などは、歴史・昔の日本文化が好きな人にはたまらないだろう。地元では出雲大社へ参拝に来る海外の方がおられるし、世界的に有名だとのことである。
ギリシャ神話を読めばギリシャに行きたくなるだろうし、ローマ史を読めばローマに行きたくなるだろう。たぶん、古事記・出雲風土記などの神話に触れて、出雲大社に来たくなった海外の方がおられるのではないだろうか。

たとえ、ストーリーに日本の舞台がなくても、その作品のパロディ・二次創作の発表の場としてコミックマーケットなどがある。商業誌・同人誌の販売などは秋葉原が有名。コンテンツ産業というのは、副次的に日本へ海外の人を呼び寄せるチャンスとなっている。
漫画・アニメなどのサブカルチャー文化というのは、エログロも含めて、いろいろなものが集まって、一つの文化ができあがっている。だから、不用意に何かしらを不健全として規制したりすることは、文化の衰退を招いてしまう。
小説にはエログロのある作品なんてざらにある。先日の芥川賞作品は不倫を扱っているのだから、(読んでいないが)当然エロに関する間接的な表現くらいあるだろうし、普通の小説にだってエロ表現はある。
魂を込めた作品を世に出せる環境を作るのであれば、規制はできる限り最低限にすべき。

話を変えるが、現在の性表現規制教科の動きは、本質的には日本の性教育の未熟さが根本にあり、性行為等についてまともに取り扱っていない所に問題がある。学生が安易に性行為はしない方がいいのは当然だが、適切な性に関する知識を身につけるという基本部分を日本の子どもは習っていない。
だから、個人的には現状を容認せざるを得ないのだが、生理学的には第二次性徴期で性欲を司るテストステロンなどの性ホルモンの分泌量が急増するなどがあり、その関係で性欲を抑えきれずに「何か」で発散する必要に迫られる子は出てくる。その「何か」はどうあるべきだろうか?
性教育で性についてまともに話をしないケースが多いから、「性」というわからない存在に対して不安みたいなものを抱き、過大に嫌悪する反応を持つ人が出ておかしくない。少子化も、その影響があるのではないか?
創作物と現実の性犯罪との関連については、もう語る必要はない。被害者のない創作物を規制したところで、性犯罪者は減らない。むしろ、そちらの摘発ばかりに目を向けるばかりに、現実の性犯罪の摘発がおろそかになれば、それこそ笑いものだ。

話を戻そう。
年配の人などが理解できない不健全と思ってしまうようなものも含めて、海外から来る漫画・アニメ好きの人が秋葉原やコミックマーケットに来ている。だから、「海外の人向け」として自分たちの文化に縛りをつけるという考えは間違っている。それは、新しいコンテンツ文化の芽を摘み取る行為だ。
海外の人向けだけでなく、漫画・アニメの初心者・初歩向けの作品を厳選してアピールすることは、間違ってはいないと思う。ただ、自由に作品を作れる土壌はあるべき。クールジャパン政策等で必要なのは規制ではなく、ゾーニングだ。厳選の上での作品アピールだ。
海外の人でも、日本の様々な萌え・性・暴力などあらゆる表現を含めたアニメ作品を理解してくれる人はいる。そういった人に門戸を開き、世界的に漫画・アニメ文化を広げることは悪いことではなく、世界的視野に立った漫画・アニメ文化の発展に寄与するのではないかと考える。
逆に、海外で作られた秀作が日本に逆輸入されて好評を博するという展開もあるかもしれない。でも、それは決して悪いことではないだろう。良い作品に触れる機会が出来るということは、良い作品を作る人を生みやすい環境を作ることになるからだ。
コンテンツを通じて、日本の土地を舞台とした作品を作れば、日本国内の人だけでなく、海外の人が聖地巡礼として作品の舞台となった土地に訪れてくれるかも知れない。たとえそうでなくても、日本にはパロディ・二次創作を活発に発表する場所がある。
聖地巡礼やコミックマーケット等に参加してくれるなど、日本に来てくれれば、観光分野として日本に経済的価値をもたらしてくれるのではないだろうか。

安易に創作物を規制することは、1.創作物の犯罪を規制しても現実の犯罪はなくならない、2.日本(あるいは世界)の文化の発展を損なう、3.創作物を通じた観光産業による経済的価値を損ねる、といった害を及ぼすことが想像できる。
作品のジャンルによって嫌悪する人がいるのは事実だろう。だったら、作品を嫌悪する人と作品を求める人と折り合いが付けられるようにする方法を考えべきではないだろうか。
私としては、作品に対する推奨年齢・特定表現の強さ(性・暴力や残虐性)の表記をすること(ゾーニング)を話し合うことが、必要ではないかと思っている所。