※こちらに書いた記事のコピーです→http://hikichin.com/html/freeexp/handle_net.html
人が文明社会を築いていく中で、新聞・ラジオ・テレビと様々なメディアが生まれているが、これらのメディアが新しく生まれても、過去のメディアを淘汰している訳でもなく、しばらくして共存関係となった歴史がある。だから、インターネットという比較的新しいメディアも、過去のメディアと共存すると思っている。
メディアの歴史 - ラジオ本放送からわずか100年も経たないうちに普及したインターネット -
新聞は、はるか昔まで遡れば紀元あたりのローマ帝国時代に至る。急速に普及するのは、おそらく17世紀(1600年代)だろう。活版印刷と郵便制度の整備により、定期的に出版された。これが今日の新聞につながる。
ラジオ・テレビ・インターネットは20世紀(1900年代)の技術だ。ラジオが生まれたのは1900年くらい、テレビが生まれたのも実はだいたい同じくらい。むしろ、テレビの実験は1800年代半ばに始めている。
ラジオの本放送開始は1920年くらいから、テレビの本放送開始は1940年(白黒テレビ)・1950年(カラーテレビ)くらいから。
ラジオ・テレビで共通するのは、電波を利用して音声や画像を受信するということ。電波の利用という意味では、携帯電話・スマートフォンも同じ。その後テレビ・ラジオは、有線放送も開始しているが。
インターネットは、その前身のARPANETの1960年代が始まりだろう。その後1970年代半ばからinternetworkingの省略形としてインターネットという言葉が使われるようになり、1980年代後半からインターネットという言葉が盛んに使われるようになった。
1983年に、ARPANETのプロトコルが、現在よく使われるTCP/IPに変わる。1985年にARPNETからNSFNetへ移行。1990年に最初のwwwのサーバ・ブラウザが完成する。
1995年にNSFNetは民間へ移管。Windows95とともに普及した。そして、インターネット普及に貢献したのがADSL高速通信サービスだろう。2000年に東京めたりっく通信から始まり、2001年のYahoo!BB・フレッツADSLのサービス開始で急速に普及した。(ADSL・携帯の年は日本の時系列。その他は世界の時系列)
携帯電話は、1990年代に普及していった。1990年代後半からショートメールサービス開始。2000年代に入ると3Gが普及していく。また、2000年代あたりから携帯からのインターネットアクセスが普及していく(日本での普及は1999年のiモード開始と思われる)。
2007年のiPhoneから始まり、続いて2008年位に販売されたAndroidとともにスマートフォンは普及していく。スマートフォンの普及と共にインターネット通信量が急増。すなわち、携帯からのネットアクセスが当たり前のものとなった。
私がこの記事を書いている2014年は、ラジオの本放送開始である1920年から、まだ100年も経っていない。その間に、私たちはネットへ気軽にアクセスできる環境が整っている。この100年のうちに、私たちは様々なメディアの発展に遭遇しているのだ。
個人的に調べた限りのメディアの歴史の概要はこんなところ。
新聞・ラジオ・テレビとインターネットに関わる雑感
新聞といった活字メディアは、文字の発明以来の歴史があるだろう。だが、ラジオ・テレビ・インターネットといったメディアは、1900年代から今日にかけて、急速に発展した技術だ。
新聞・ラジオ・テレビの歴史を見ると、他のメディアを完全に淘汰した事実はない。だから、インターネットが普及しても、過去のメディアが完全になくなるとは思っていない。
ただ、提供のされ方が変わることはあり得るだろう。
ラジオ・テレビといった、電波や有線で音声・画像を送る物はインターネットで代替は可能である。インターネットは、携帯電話の電波・光ケーブル等で各家庭に配信することが可能だ。だから、離島でない限りは、配信方法に変化はあるかもしれない。
離島なら、衛星通信という手段もあるだろう。
配信方法として、非常時のラジオ放送を除けば、インターネットにすべて委ねる可能性は否定できない。
インターネット以外のメディアに問題があるとすれば、新聞・ラジオ・テレビの地方局などの利権・存在意義となる。
(テレビニュースも含むが)新聞もその存在意義が問われる時代になっているように思う。完全になくなるとはいえないものの、インターネットという情報の氾濫する中で、記事の正確性に疑問を持たれ、信頼性が失われてしまうと、読者は記事・報道そのものを非難しだす。記事に対する正確性・深く掘り下げた内容など、記者の手腕が問われる時代に入り出しているように思う。
逆に、インターネットそのものに対する問題もある。
インターネットというインフラに対する問題がある。インターネット単一のインフラに乗ってしまうと、インターネット自体が崩壊した場合、あらゆる情報がやりとりできなくなる危険が出てしまう。
インターネットというのは、あらゆる接続者に対して、平等にアクセスできてしまう。それはたとえ犯罪人・犯罪的組織であっても。便利であるが、同時に危険を孕む世界でもある。だから、ネット教育の欠かせない世界だ。(後述)
ネットテロの発生を考慮すると、インターネットそのもののあり方を十分吟味する必要がある。それは、電気・水道・道路信号といったインフラと接続するならなおさらである。暗号化・IPフィルタリング・物理接続線分離等を考える必要がある。
また、インターネット自体もお金がかかるインフラである。だから、そのインターネットへお金が回らなくなると、維持が出来ずに情報が遮断される危険があるだろう。インフラとしてインターネットに頼りすぎる危険性・インターネットを支える仕組み作りは意識する必要があるだろう。
たとえば、世界のメールの6~7割がスパムメールという事実もある。インターネットを支えるサーバーへのアタックも懸念されている。
アプリ単体を批判しても、インターネットの問題は解決されない
インターネットの歴史は、インターネットを利用するアプリ(プログラム)の歴史といっても過言ではないと私は思っている。(もちろん、インフラの重要性も欠かせない。特にARPANETの存在やADSLや3G以降やスマートフォンの普及など)
まず、WWWサーバとクライアントのアプリがなければ、情報の発信・情報の閲覧が始まらなかっただろう。その後、メールのやりとりができるようになり、VPNなど様々なアプリが開発・サービスが提供され、使えるようになった。
サーバー側のアプリとして、ブログサービス、Wikiサービス・クラウドなどが提供されるようになり、便利になっていった。インターネットラジオもサーバー・クライアントアプリの一つだろう。インターネットテレビもその延長線上になるだろう。
インターネットの世界は、犯罪的な存在を含めて、あらゆる人に対して平等に通信サービスが提供される。
その上で私たちは、ある程度フィルタリングされた世界の中で生きている。例えば、ISP側で迷惑な接続を遮断したり、メールサーバーでスパム・ウイルスメールを振り分け・削除したり、検索できなくしたり、ウイルス対策ソフト等で攻撃を遮断したり…。その中でなるべく安全にネット接続するようになっている。
そうしたフィルタリングされた世界の中であれば、ある程度犯罪的な存在との接触は限られてくる。それでも、ネット上でウイルス・スパムメールが存在したり、人と接触する以上、犯罪に巻き込まれる可能性はどうしても出てくる。
批判されている掲示板・LINEなどの存在は、あくまでサービス・アプリ・ツールの一つでしかない。そのものを淘汰しても、新しいサービス・アプリが提供される。だから、ツール自体を批判し規制しても、別のツールに移行するだけ。最も必要な対策は、安全なネットとの付き合い方を学習することだ。(後述)
また、アプリ・ツールのバグ・セキュリティホールを無くすことも欠かせない。暗号化技術の開発も止めてはならない。2014年8月現在安全とされるAESもいつか破られると思った方がいい。
ただ、私たちは過剰に暗号化が破られることばかり気にする必要はない。これは、国・OSやアプリの開発者に求められている課題だ。私たちは適時、必要とされる適切な暗号・プラットホーム等を利用すればそれでいい。WindowsXPのような警告に耳を傾けて対策できればそれでいい。
私たちユーザーが気にすることは、そうしたアプリ対応とともに、会社等で内部犯行者を出さないことだ。実際の人間が、会社や組織の中にスパイ等として入り込み、内部から攻撃等をされることに気を付けなければならない。これが一番大切だ。
あとは、自分が知らずに犯罪者にならないこともあるだろう。それは、後述の「学習」で習うべきことだろう。
<学習の必要性>生活の中における、インターネットを含むメディアとの付き合い方
インターネットは、新聞・ラジオ・テレビと異なり、自分自身が発信者となるためのハードルが極めて低い。犯罪的組織であっても、素人であっても、(メールやLINEなどを含めて)ネットへ自分から言葉を書き込みやすいし、情報をアクセスしやすいし、サービスを利用しやすい。
無知であれば犯罪に巻き込まれやすい環境でもあるし、自分が攻撃されやすい環境でもある。ならば、どうすればいいのか。
必要なのは「生活学習(私の造語)」の中における「ネット教育」だ。「交通安全教育」と同列に扱っていいものだと考えている。
現在の学校教育において、「四・五教科」ばかり注目される傾向にあるが、私たちが社会人になった時を考えると、社会生活に関わる知識を学ばなければ、子どもが大人になった時に社会性のなさを非難されてしまう。だから、「生活学習」のような学習機会が必要だろう。
インターネット上では、大人も子どもも、性別・宗教・思想など、そういった立場を超えて、情報・人にアクセスできてしまう。だから、現実社会と比べてトラブルが起きる可能性は高くなる。
ネットで人と接するのであれば、礼儀をわきまえる必要があるだろう。不用意な画像をアップロードしないなどのマナーが必要だろう。そうした知識がなければ、社会人であっても、ネットで問題が発生してしまう。「ネット教育」による学習は、誰もが受けるべきだ。
子どものうちに、ネット教育を受けることができれば、ネット上の有益な情報を取得したり、人と会話することは決して悪いことではないと思う。フィルタリングソフトとウイルス対策ソフト等を併用して、安全に利用し、「依存」しなければいいと思う。
それに、人と接してスムーズに話ができることは、社会人になった現実社会においても必要な「技術(スキル)」の一つであり、無駄な経験・技術・知識ではない。
学校等で社会教育である「生活学習」の一環として、「ネット教育」を受けることは、大人になっても役立つ知識として必要だと私は考える。
インターネットを排除する必要はない
インターネットは、新聞・テレビ・ラジオ世代からすれば、「自分から発信できる」という未知の部分、「双方向でやりとりができるが故の犯罪報道」という怖さから、どうしても忌避したくなるものかもしれない。
しかしインターネットは、(偽情報もあるが)様々な情報を収集できる・サービスを利用できる便利さがあるし、国境や立場を超えて会話ができる楽しさなどがある。それは、新聞・テレビ・ラジオではできないものだろう。
ただ、新聞・テレビ・ラジオと違って、自分から能動的に動くことが必要であるため、疲れる部分がある。その点では、テレビ・ラジオのスイッチを入れて視聴する気楽さ・アクセスのしやすさは、インターネットと比べれば優れている。だから、完全にはなくならない。
インターネットのネット配信・サービスは、既存の新聞・ラジオ・テレビとは異なる、新しいメディア・サービスであり、過去のメディアとは別のものだ。だから共存できるし、排除する必要はない。
もし、既存メディアが危機感を感じるのであれば、自分達がインターネットという新しいメディアにはない「独自性」は何か・いかに出すかを考えることが重要だと考える。
参照
新聞 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E
ラジオ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA
テレビ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93
携帯電話 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%90%BA%E5%B8%AF%E9%9B%BB%E8%A9%B1
インターネット - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88
インターネットの歴史 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
ADSL - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/ADSL
iモード - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/I%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%89
iPhone - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/IPhone
Android - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/Android
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