性と創作物・子ども等に関するお話です。
長文・乱文ですが、お付き合いいただければ幸いです。
○日本の文化の危機
最近の傾向として、法律・条例で漫画・アニメ・ゲーム等に対する表現規制を強める動きがある。目的は「子どもを守るため」と言うが、はっきりいってこのような規制は「子どもを不健全にし、子どもが余計に守られなくなるもの」だ。どっちかといえば、「一部の『偏狭な大人』が見て不快な作品をこの世からなくすため」というのが本当の目的だろう。いわゆる、民主主義国家に不可欠な表現の自由に対する挑戦が、近年の表現規制の動きである。
個人的には(意識・無意識に関わらず)「子どもが自分の理解できない遊びをするのはけしからんから」「自分が不快だと思うものを子どもが見るのはけしからんから」という、「大人のわがまま」を通すのが目的だろう。あるいは、行政の利権のためというのもあるだろう。「子どものため」ではなく「大人の自分たちのため」に規制をしようとしているのだ。本当に「子どものため」を思うなら、自分で自分を守れるような施策をすべきで、こちらから提案もしているのに、まったく耳を向けていない。子どもへの性犯罪の半分以上(80%とも言われる)は、親族や身近な人から受けているという事実から目を背けて。
小説には、直木賞作品や村上春樹氏の作品などを読めばわかるが、普通に性行為に関する表現がある。音楽だって、エロい歌詞、暴力的・残虐的な歌詞がある。これらの分野が漫画・アニメへの規制とは無関係でいられるかと思ったら大間違いだ。戦時中の検閲は、「子どもの健全な育成」を目的として、漫画・絵本の規制が始まったが、それを皮切りに映画・音楽と規制は急拡大した。
そして規制を強く望みロビー活動をしているある団体は、漫画・アニメなどの画像だけでなく、音楽・文章も規制すべきだと、はっきり言っている。
今、日本の文化自体が危機的状況にあることをどれだけの人が理解しているだろうか。
○創作物の表現規制・検閲の歴史
戦時中の1938年10月に、内務省図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」によって、青少年向け漫画・絵本の規制が始まったことをご存じだろうか。
これは、青少年の健全な育成という名目で、漫画・絵本に対する検閲を行うというものである。
その後、1939年には「映画法」で国益に反する映画が作れなくなった。
1940年には「警視庁興行取締規則」で、演劇・講談などの興行に対する規制が強化された。
1941年からは、浪曲などの音楽・レコードの取り締まりが強化された。
それ以前から、新聞では検閲があり、政府の意向に反する記事は書けなかった。それが、1945年には「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」「日本ノ新聞準則ニ関スル覚書」によってさらに規制が強化された。
当時の検閲は、組織図を確認する限り二つあった。内務省警保局検閲課(図書課)、そして、警視庁特高部検閲課。つまり、検閲で問題があれば、特高に捕まる可能性があった。特高に捕まった人がどのような扱いをされたかは、歴史を調べればわかる。拷問など当たり前で取り調べで死亡することだってあった(蟹工船の小林多喜二は、特別高等警察の取り調べの際に行われた拷問で死亡している)。
そして、今の警察組織も自白に頼った誘導尋問は当たり前で、冤罪も多発している。国際社会からは、まるで中世のようだとバカにされているのが現状だ。つまり、日本の取り調べ・司法は、世界の中でも後進国に位置付けられている状態である。
漫画に対する表現の自由は、昔から対立の歴史だった。
戦争終結は1945年8月である。
詳細は「マンガはなぜ規制されるのか」長岡義幸著が詳しい。
その戦後である1955年あたりで、「日本子どもを守る会」「母の会連合会」などが漫画バッシングをはじめる。ちなみに、「母の会連合会」は、警察官の妻による民間団体。つまり、事実上警察による漫画の規制だったと言える。
そして、警察などの行政・親が考える「健全な作品」以外の漫画に対して、大規模な排除に動き出した。その中に、当然手塚治虫氏の作品も含まれた。
排除の理由は「作中に拳銃が出た」「文字がほとんどなく、効果音ばかりで読書教育に悪影響」「絵が低俗。芸術感覚が麻痺し情操が荒廃する」「漫画を取り上げ、良い本を与えよう」など。こんな理由を見れば、子どもの自主性などまったく無視して、大人が押しつけようとしている。まさに過干渉である(ちなみに、性犯罪者の傾向として、小さい頃に親などから過干渉を受けた人が数多くいることを加える)。
ルパン三世みたいに拳銃が出たり、風の谷のナウシカみたいに文字がほとんどなかった作品を読んだり、あげく北斗の拳みたいに暴力ひしめく作品やらんま1/2など女性の裸がたくさん出る作品を見るなど、様々な漫画・アニメに接してきたが、その世代に子どもだった人の多くはいたって健全に育っている。
だが、そんなことを無視して、「子どもの健全のため」という名目で、1950年以降に次々出来ていった「青少年健全育成条例」の中で、漫画・アニメ等の「事後検閲」が行われていった。それによる出版社側の自主規制で、知らないうちにいくつもの作品が消えていっている。それは、今もだろう。
○創作物を規制することは正しいことか
大人達にとって「良い本」と「悪い本」があって、「悪い本はこの世からなくさないといけない」と思っているかもしれない。だが、それは正しいことなのか?
「悪い本」とは「大人の自分にとって都合の悪い本」ではないか?
作品の中には「暴力」「残虐」「エロいものなどの性表現」があるだろうが、それを単純に「大人が」見たくないからではないだろうか。
第二次性徴期以前(だいたい10歳以前)なら、エロ・グロ作品は見せたくないと私自身も思う。でも、そういった子どもは多くは見てもわからないし、わかったとしても他人に傷つけない程度に真似する程度で、しかも大きな影響を与えることはない。それより何より、子ども自身が虫を殺したり、子ども同士で喧嘩(暴力行為を)したり、子どもが裸になったり下半身を出してたりなど、現実世界の方でエログロ暴力行為をしている。
第二次性徴期以降になると、今度は青少年側が好んで刺激の強い作品を求めてくる。それは、自我の目覚めでもあり、子どもが自立していく過程でもある。その子らが「暴力」「残虐」「性表現」を見ることは、個人的には予防措置をとれば問題ないと考えている。その予防措置とは、「メディア教育」と「性教育」だ。そして、これらの教育に対して否定的なのも大人側だ。
つまり、「有害図書」に相当する漫画・アニメ・ゲームが出ることで問題が起きているのは「子ども」ではなく「大人側」だ。よく考えて欲しい、漫画・アニメ・ゲームの影響で他人を殺したとか、性犯罪をしたのが明確になっている事件なんて、今までニュースで出ただろうか。どちらかといえば次のような声が主だろう。
・「あんな卑猥なものを置くなんてけしからん。子どもに悪影響だ」
・「こんな暴力表現・残虐表現があったら子どもが真似したら怖い」
これらは「過敏に反応する大人の声」ばかりだ。
先ほどの声は、次のように言い換えられる。
・「あんな卑猥な物を(自分は)見たくない」
・「こんな暴力・残虐表現を見てると(自分の)気分が悪くなる」
つまり、「子ども」を利用して「大人である自分」にとって都合の悪い物を排除したいだけである。
芸術性云々も、私から言わせてもらえば、「個々人が持つ『感動』を主観的に評価するもの」だ。「個人の主観」だから、人によって芸術性なんて変わる訳で、それで規制の理由にすること自体間違っている。
政治的主張もそうだ。創作物にしても、どのような文章においても、いつ何時に作中に政治的な意味合いを含む内容が出るかなんて、実際はわからないものだ。その意味においては、あらゆる作品の表現の自由を守らなければ、「表現の自由で守るのは政治的主張だ」と言われても、説得力を欠けてしまう。
それに、ベルギーでの調査でも、日本の警察とハワイ大学の共同調査にしても、エロい作品からの悪影響は(子どもを含めて)ないとの調査結果が出ている。暴力表現についても、アメリカのハーバード大学などの調査で、短期的には真似をすることはあっても、長期的な悪影響はないとの結論が出ている。
あなたは、エロい作品を見たり、暴力・残虐的な作品を見て、自分が不健全に育ったと思いますか?自分の実際の育った環境が悪かったのを創作物の影響だと責任転嫁していませんか?
○創作物における性愛・エロスの必要性
私自身、小説については高校生の頃から本格的に書き始めている。
そこで、私自身は「男女の性について書く」ということが、作品を描く上不可欠であることがわかった。
人は生きていき、男女が出会って本当に心から通じ合って付き合う中で、性というものはどうしても意識せざるを得ないのだ。だから、個人的に性行為をしていなかったということで「本当の性愛が描けない」という悩みもあり、悔しかったがその部分は飛ばして描かざるを得なかった。そして、当時の私自身も性に対して後ろめたさを感じていて、公表時には避けたいと思っていた。
でも、本当に人が恋愛するのに、性を避けることなんてできるのか?
好きな人と出会い、手をつなぎ、キスをして、好きな相手と抱き合う。そして、裸になって抱き合う。
好きな人がいたら、どこまでも近付き、抱き合いたいと思わないのか?
思わない人は、本当に好きな人に本心で抱きしめたことがあるのか?
自分はある。目の前に、母が、父が、弟が自殺して、次に自殺してもおかしくない女性がいて、守りたくて抱きしめたことがある。その時に痛感した。好きな相手に肌で触れて、抱きしめることで、本当の意味で相手への愛おしさを全身で感じることができるんだ。
そんなことを経験していれば、性愛というのは忌避するものではなく、もっと身近で大切にすべきものだとわかる筈だ。
話がそれるが、子どもがどれだけ思慮深い面があるか知っているだろうか。私は高校生の頃にある施設でパソコンで遊んでいたのだが、その自分の横に小学生の女の子がちょこんと座って私がプレイするゲームを見ていることがあった。その女の子は、私にいろいろなことを話していたが、もうはっきり覚えていないが、その子の話をずっと聞いていると、すごいしっかりとした意思・意見を持っていることを痛感させられて、私は凄いショックを受けた。今(2013年)でいえば、春名風花ちゃん(はるかぜちゃん)がしっかりとした意見をツイッターで発言して、ませているとみんなが叩いているが、はっきり言って子どもをまったく理解していない。子どもは「一人の個性・思想・魂を持つ、大人と同じ一人の人間」だ。子どもを下に見ている大人は、不勉強な愚か者だ。
話を元に戻す。
自分の少ない恋愛経験の中で、性愛を通じて、相手をよりいとおしく感じられるようになるのを実感している。言葉だけという上辺の恋愛では、人は本当に相手を愛することは難しい。
別にセックスだけが性愛ではない。抱きしめてもいい。キスをしてもいい。そういった愛情表現で互いを確かめ合えれば、それだけで互いの絆はより強固になる。それは、小さな幼児も、年配のご老人もそうだ。恋している好きな人と抱きしめあえたら、嬉しくないだろうか。
そして、性欲を持つ第二次性徴期以降の青少年から性欲が衰えるまで、性行為を通じて相手と肌を重ねたい人は多いのではないだろうか。
その真実を小説に描くことの何が悪いのか。なぜ、その感覚を描くことを禁忌にしたいのか。
そして、なぜ漫画・アニメ・ゲームで性愛・エロスを描くことが悪いことなのか。
自分には、大人が自分が恥ずかしいことだから、子どもに性愛について教えること(性教育)をサボっているだけにしか見えない。実際は教えることを恐れているだろうが。
○性教育の充実の必要性
青少年はみんな性愛を知りたがり、自分の体の変化に悩んでいることを理解しないといけない。
大人は初潮・精通についてきちんと教えられるか?
子どもがそんな場面にあったら、どれだけショックを受け、うろたえるか知っているか?
私は親に話ができなかった。性教育で詳しい話を聞かないで精通が来たから、知識もなかったために、精神的ダメージは大きかった。
今の性教育は、子どものためになっていない。
「寝た子を起こすべきでない」という人がいるが、私から言わせれば、第二次性徴期に入れば「いずれみんな寝た子は起きる」のです。
援助交際(売春)の話は、週刊誌やテレビニュースなどを見たり、友達と話をしていればその知識は入ってくる。ならば、その知識が入る前に危険性も含めて学習すべきなのに、それを学ぶ機会があるという話は私の耳に入ってこない。援助交際(売春)の危険性をあまり知らない援助交際で大きなお金が手に入ることを知れば、お小遣いがほしい、家計が苦しいという理由で、援助交際に走る少女が出て当たり前だ。そのような少女をたくさん生み出しておいて、「援助交際による少女の性被害が増えている」と言うのはおかしな話である。根本的には性教育で援助交際の危険性とお金が欲しい時の対応について学習できていれば、少女の売春はかなり抑えられるはずだ。
「エロいことを知らなければ、エロいことはしない」というのは、青少年にはまったく通用しない考えだということを理解すべきだ。性教育をまったくしないで生徒の10人に1人が妊娠したり性病が他の地域より圧倒的に広まった、テキサス州ラボックの例を知るべきだ。
性について真正面に考え、性教育を、身体の成長に関する知識や性感染症の知識だけでなく、恋愛に対する基本姿勢、妊娠した時に考えないといけない対人面・経済面・法律面の問題、性犯罪・性暴力・性虐待とは何で通報先はどこか、性行為の仕方などをきちんと学ぶ必要がある。
○性が身近な社会の方が男女平等であり、性が抑圧的な社会では父権社会である
特に最後の性行為の仕方を学ぶなんてけしからんと思う人がいるだろう。だが、性行為の仕方をしらなければ、大人になってから赤ちゃんを作る際に、女性にひどい苦痛を与えることになる。それは、性を通じた暴力だ。それより、むしろ男女間が肌を重ねて幸せを感じながら性行為をした方が健全だ。「性行為で快楽を求めるのは卑猥でけしからん」という人は、女性が赤ちゃんを作る際に性行為で苦痛に何度も耐えることを強いることが本当に正しいのかを考え直して欲しい。性行為で、苦痛を感じることと、快楽を感じることと、どちらが正しいのかをよく考えてもらいたい。
また、女性に苦痛を強いて赤ちゃんを産むというのは、女性の地位を落とす行為だと考えている。性について抑圧的な社会(例えばイスラム社会など)では、女性の地位が低い父権社会が圧倒的に多いという事実がある。逆に、昔の夜這いのあった日本の社会においては、女性がある一定の地位にあり、比較的女性の権利が守られ大切にされてきた歴史がある。江戸時代の三行半の風習などは、特に女性が離婚を申し込む上で女性が比較的有利に働いていた。つまり、男性が女性を抑圧するような社会ではなかった。
では、アダルトビデオが普及した今、女性の地位が落ちたかといえば、むしろ地位は向上しているように見える。AV女優が堂々と一般のテレビ番組に出演できるようになっているのは、よくよく考えれば女性の地位が向上しているように思える。逆に女性アイドルの方が男性が女性にアイドル像を押しつけてる感じで、父権的ではないだろうか。
それに、女性には生理があり、生理期間中の不快な症状で、ストレスをぶちまけられることがあることを男性が理解できれば、多少は女性にやさしくなれると思う。そして、第二次性徴期を過ぎた男性は性欲がすごく強くなることを女性側も理解してもらえると、助かる。
○児童ポルノ禁止法の目的とは
では、児童ポルノ禁止法の趣旨・目的を説明する。
法律の略称は、正しくは児童買春・児童ポルノ禁止法である。
この法律ができたのは、発展途上国の児童売春街で、児童による売春を通じ、性的虐待による死亡が発生したのが発端である。
つまり、児童への性的虐待という実際の人権侵害が発生したため、子どもの生きる権利を守るために運動を起こし、児童の権利を保護する目的で、この法律が世界的に作られることになった。
つまり、「児童の人権保護のための法律」である。
なので本法律の趣旨は、児童に対する性的虐待、児童の人身売買や誘拐など、児童に対する著しい人権侵害から保護するのが目的である。
児童ポルノがなぜ良くないのかは、次の理由である。
・児童ポルノである実写の画像(静止画・動画)が犯罪を行うことで作られた成果物であり、犯罪証拠物である
・児童ポルノが流通することがビジネスとなれば、さらに実写の児童ポルノ作品への需要が高まり、児童への性的虐待を助長する
つまり、「実写画像を通じて実際に児童への性犯罪を行っている」「ビジネスとなると児童への性犯罪を幇助することになる」のである。
なので、児童への性的虐待を撮影した児童ポルノは、取り締まることが妥当なのである。
ただし、国際刑事警察機構(ICPO)が「児童ポルノ」という単語自体が誤解を招くということで、児童性虐待成果物(CAM:Child Abuse sexual Material)を用いるべきと、各国に働きかけている。
理由は、仮想と現実の犯罪とを混同することを問題視しているからである。
だが、日本の児童ポルノ禁止法は、「見る側が感じること(思想)」から規制を行っている。だから、犯罪行為でない自分の子どもの裸の写真さえも児童ポルノとなる可能性がある。単純所持処罰の規定が盛り込まれれば、自分の子どもや自分の子ども時代の写真・動画を持っていたら、逮捕されてもおかしくない。
しかも、対象に漫画・アニメ・ゲームを加えれば、自分が落書きで裸の写真を描くことさえ犯罪行為になってしまう。
「仮想・現実にかかわらず児童の裸を『見る』のはけしからんから処罰すべき」というのは、見る側「思想」を取り締まるという考えだ。「エロい児童の絵を描くなどけしからん」というのも、本質的に描く人の「思想」を取り締まる行為である。つまり「道徳法」の視点で「治安維持法」と何ら変わりがない。しかもこれらは、本質的に児童の性被害者保護の考え方ではない。つまり「実児童の人権保護の法律」となっていない。
だから、法解釈として「実児童への性的虐待を行っている画像」を取り締まるようにしないと、世界的な児童ポルノ規制と乖離した古い考えでは、児童への性犯罪とは無関係な人ばかりを逮捕するような児童ポルノ法となってしまうだろう。
○創作物の児童の出るエロ作品を規制しても児童性犯罪は減らないか助長する
欧州の各地では、漫画などの創作物が児童ポルノにあたるかについて、裁判所が相次いで「漫画は児童ポルノにあたらない」という判決を出している。
また、韓国においても「漫画は児童ポルノにあたらない」という判決がでている。
成人向けのエロ漫画においては、未成年に見える男女が性行為をするものは当たり前に何年も出ている。しかも、その数はどんどん増えており、ネットにも至る所にある。だが、そのことによって性犯罪が増えたかといえば、逆に近年は児童への性犯罪は成人向けコミックが出る前の小学生458人・幼児96人(1965年)から、小学生45人・幼児3人(2012年)と10倍以上も減っている。
成人向け漫画が出始めたのは1970年代からであり。本格的に普及しだしたのは1980年代からである。
つまり、エロ漫画などの創作物と児童性犯罪とは、少なくとも無関係である。
逆に、統計情報を調べると、エロ作品の普及と性犯罪は逆相関関係で、エロ作品が普及すると性犯罪が減り、エロ作品が取り締まられると性犯罪が増えるような傾向がある。
事実、韓国において2000年に青少年保護法によってエロ作品に対する締め付けを強化した後、少なくとも4件の大きな性犯罪事件が起きており、日本にもそのニュースが伝わってくる位である。
昨年、さらに青少年保護法を強化した結果、実際の性犯罪をしていない、エロ作品を見た多くの青少年が数千人規模で逮捕される事件が発生して社会問題化した。逮捕された青少年は、就職ができずに苦しんでいる。
スウェーデンでは、漫画の児童ポルノに関する裁判で、警察側からの異例のコメントとして、創作物も児童ポルノとして規制することは、実際の児童性犯罪取り締まりの時間を削る行為であると紹介していた。
つまり、創作物のエロ作品の取り締まりに力を入れることで、実際の児童性犯罪取り締まりに悪影響を及ぼすことになりかねないのである。なぜなら、創作物のエロ作品を探すのはデスク上でネットを自動プログラムなどを使えば容易に探し出せるし、流通でチェックをかければエロ作品を調べることも可能だからだ。そして、創作物のキャラクタが児童かは捜査官の主観で決めることができる。だから逮捕は容易である。
しかも、創作物を見ることで性犯罪を助長するということについては、科学的に証明されていない。つまり、無意味なことを理由に逮捕しているのである。
そうして無意味な創作物への捜索に人・時間をかけてしまい、逆に実児童への性被害へのリソースが減れば、性犯罪者が野放しになるケースが多くなり、児童性犯罪を助長することになってしまう。これは、実際の性犯罪者を喜ばせるようなことだ。
○少子化問題
近年、少子化で政府の税収が減って大変だという。でも少子化は止まる気配がない。
日本の少子化の一因は、性情報を過度に「有害情報」として扱い、性教育でも恋愛・性行為を教えず、規制しているからではないか。
性教育等で異性のことや恋愛の仕方の基本についてきちんと知る・教えなければ、少子化が進んでしまって当たり前だ。授業でわざわざ恋愛について教えるなんて、馬鹿馬鹿しいと思うだろうが、お見合いも少なくなった現代において、恋愛ができなければ結婚もできない。つまり、子どももできない。つまり、国を維持する上で必要なカップルを作るために恋愛は学ばなければならない必要な知識である。
「異性と付き合うことをしないから、一人で暮らして異性に煩わされず自由でお金に困らないから嬉しい」という言葉を何度聞いただろうか。
異性のことやつきあい方を知らずに何度も別れてしまい、あるいは異性のことがわからず不安で付き合うこともせず、結局時間ばかり過ぎて恋愛・結婚をあきらめてしまっている人が多いのが現状なのだから、いくら保育所をたくさん作ったりしても少子化に歯止めはかからないだろう。性に過度に抑圧的な国を作ることは、結局少子化で国を滅ぼすことになるだろう。それとも、移民を受け入れることがお望みだろうか。
○最後に
エロい作品に嫌気を差す人はいるだろう。
でも、エロい創作物に対する需要は確実に存在し、その恩恵を享受している人はたくさんいるのは事実だ。恥ずかしいから誰も言い出せないだけだ。
小学生に成年コミックやAVはけしからんと思う人は多いだろう。私も親になれば小学生には早いと思うだろう。
だが、中高生の特に男子がエロ漫画やAVを見るのは本当に不健全なのか。性欲が有り余る第二次性徴期以降に、性的なものに触れないことが本当に健全なのだろうか。
性・暴力・残虐表現のある作品は、大人が見てショックを受けることはあるだろう。でも、子ども自身はそれを欲する時が来る。しかも、生理的にである。
性に関心を持たない人間は、健全なのか?
性に関心を持たないということは、赤ちゃんを産む行為、性行為に関心を持たないということだ。それは人として壊れていないだろうか。
性に関心を持たないということが健全というなら、人は滅ぶべきだということだ。なぜなら、赤ちゃんを産まないことを推奨する行為だからだ。
性を忌避せず、もっと真正面から向き合って考えてみるべきではないだろうか。
エロいものについても、一定のマナーが保たれていたら容認するくらいの寛容さを持っていた方が、幸せではないだろうか。
性について正しい知識を持ち、性情報とも適切に付き合い、男女が性のことも含めて互いに幸せになれるような社会を作った方が、日本の将来のためにもなるのではないだろうか。
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